現代社会では、「他人からどう思われるか」「周りに認められているか」ということが気になりやすいものです。SNSなどを通して、承認や評価を得る機会も増えましたが、その一方で本来の自分がわからなくなってしまう――そんな声を耳にすることも増えたように思います。
哲学者マルティン・ハイデガーは、人間存在(Dasein)が「世人(das Man)」として生きる姿を批判的に捉え、本質的な自己を回復する道筋を提示しています。今回は、その考え方をヒントにしながら「承認や採択の世界観、呪縛から逃れるにはどうすればいいのか?」という問いにアプローチしていきたいと思います。
「世人(das Man)」とは何か
ハイデガーによれば、多くの人間は「世人」の状態で日常を生きています。これは「みんながこう言うから」「こうするのが当たり前」という、世間の通念や常識に自分を預けきってしまう在り方です。
世人の特徴
こうした状態は決して珍しいことではなく、むしろ私たちの日常にはごく自然に溶け込んでいます。
ハイデガー的に言えば、これはまさに「世人」の渦中にいる状態。そこで鍵となるのが「死への存在(Sein zum Tode)」の自覚です。
「死への存在」が教えること
ハイデガーは、人間が「いつか必ず死を迎える」という事実を真正面から受け止めることが、世人のあり方を脱却し“本質的自己”を回復する大きなきっかけになると説きます。
死だけは誰も肩代わりしてくれない
仕事や義務、責任なら他者に代わってもらうことができる場合もありますが、死だけは代行が不可能です。これは「私が私である」という固有の存在性を強烈に意識させます。
有限性を思い起こす
自分がいつか死ぬ存在であると受け入れると、今ここにある時間や選択をより主体的に考えざるを得なくなります。「周囲がどう言うか」ではなく、自分がどのように生きたいかという問いが真剣味を帯びてくるのです。
この覚悟ともいえる視点の転換が、ハイデガーがいう「決意性(Entschlossenheit)」へとつながります。
「良心の呼び声」と「決意性」
「世人」として暮らすなかでは、日常の雑音にまぎれてしまうものの、私たちの内面には常に「本来の自分を思い出せ」という呼び声が存在しているとハイデガーは言います。それが「良心の呼び声(Gewissensruf)」です。
外部からではなく、内部からの呼びかけ
世間や他者が「こうしろ」「こうあるべき」と叫ぶのではなく、自分の内側から小さく響く“本当の声”です。
呼び声への応答としての決意性
その呼び声に応えようとする態度が「決意性」です。世間の常識や期待とは無関係に、自分の可能性を主体的に選び取り、自分だけの責任で生きる決断をすること。これが「本質的自己」への道だとされます。
この「決意性」は、必ずしも派手な行動や劇的な自己変革を意味するわけではありません。むしろ、小さな日常生活の選択において「これは自分が本当に望んでいることだろうか?」と問い続ける姿勢が大切になります。
自分の人生の舵を取り戻すために
「承認・採択の世界観、呪縛から逃れる」というのは、決して他者を拒絶したり、社会を否定することではありません。自分の存在を支えてくれる仲間や社会の仕組みは、生活を成り立たせるうえで不可欠なものです。
しかし、その関わり方の主従が逆転してしまうと、自分の人生が“世間”に明け渡されてしまいます。そこで、ハイデガーが示すように「死への存在」を自覚し、自分の内面から沸き上がる呼び声を見逃さずに生きることが、本質的自己への回復への道しるべとなります。
承認や評価はあくまでもプラスアルファ
社会のなかで承認されることもモチベーションとしては大事。でも、それだけを生きがいにしない。
「死」を想うことは「生」を大切にすること
限られた時間のなかで、自分なりに納得して生きることがどれほど大切かを思い出す機会となる。
日常の小さな決意を大切に
派手な行動よりも、「ほんの些細な選択でも自分で決める」ことを繰り返すなかで、少しずつ“自分らしさ”が形作られていく。
誰かの真似でもなく、社会がこうだからというだけでもなく、「自分の人生を自分自身で生きる」こと。その具体的な行いこそが、「世人」から自由になり、承認の呪縛をほどいていく一歩となるのではないでしょうか。
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