発達のリセット

「意識には必ず対象が存在する。」「意識は必ず視点を伴う。」これは有名なエドムント・フッサールの現象学から考える意識の視点です。フッサールの言う私の意識は、デカルトの言う「我思う、ゆえに我あり(Je pense, donc je suis)」とは異なり、「私」と「世界」の関係性から生まれるとされています。

また、フッサールの言うパースペクティブ性は、どの視点からその対象を捉えるかによって意識が起こるか起こらないかを説明しています。どの視点で、今起こっている世界の難題を見ているかによって、意識は異なります。

不測の事態が起こらず、なんら創造性が求められない仕事や生活であった場合において、私たちは普段、行為のほとんどが無意識に制御されいます。そういった場合、私たち人間は、ある種、前意識的な世界のみで生きていることになります。

コーヒカップをつかむ私、そこにはなんら意識が立ち上がらない場合であっても、コーヒーカップをうまくつかむことができず、コーヒーをこぼしてしまえば、突如意識が顕在化されてしまいます。そして、その経験が強烈なものであれば、例えばコーヒーをこぼして携帯電話を壊してしまえば、エピソード記憶として強固なものとなり、物語的自己の一つとして語られたりするでしょう。

今、私たちには、全世界共通の不測の事態を招いています。ただし、その出来事も、どの視点からみるかで違った見えが生まれてきます。視点を変えてみること、そして、今の身体で経験したエピソードを、物語的自己として格納し、一度立ち止まり、リセットすることが必要なのでしょう。私もそのように考え、どのように残りの人生を生きていくか、やわらかに考えてみたいと思います。

 

森岡 周

 

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