オンライン飲み会なるもの

私は生まれも育ちも「土佐の高知」です。高知県人であることを誇りにしています。ここ最近、「家にいよう」というキャッチフレーズのもと、「JIN-仁-」が再放送されており、龍馬さんを演じる俳優の内野さんの土佐弁に逐一反応しているわけです。

さて、オンライン授業、オンライン会議に加えて「オンライン飲み会」なるものにいくつか参加しました(実は、昔からちょくちょくやってたんですがね。。)。オンライン飲み会は新たな側面を持ち、住む場所問わず、みんなで集まれるというメリットは相当あるな、と思ったわけです。しかし、土佐人としては、「なんか物足りない」わけです。高知では夕方5時から飲み始めて、明け方4時ぐらいまで飲んでも、退屈にならないのですが、オンライン飲み会では、時折、「間」ができて、「手持ちぶたさ」で、退屈な時間が経過する時があるのです。

おそらく、いくつかの影響が考えられるのですが、一番の大きな理由は、トークが「役割交代」になってしまっているところかなと思っています。いわゆるコミュニケーションにおける「キャッチボール」です。だから、きちんとコミュニケーションがとれているのはとれているのですが、キャッチボールになりすぎてしまい(会議ならいいのですが)、会話が「かぶさらない」のです。覆いかぶさるというか、タイミングが時間的に同調するというか、身体運動が共鳴するというか、とにかく、相乗的な盛り上がりにはならない、わけです。共鳴させると、ネット上なので、それはそれは「反響」しあってうるさいし、まず誰がしゃべっているかわからなくなるので、みんな遠慮しあうわけです。つまり「躊躇」が生まれるわけです。

また、参加者が多い場合は、顔情報が多すぎて、誰に、何に選択的注意をすればよいかがわからなくなり、画面は見ているものの、焦点化させることがなく、目と頸の協応が必要ないことから、意図的に何かを見て聞くという身体的なしぐさが圧倒的に少ないわけです。つまり、他者の視線に追従したり、あるいはさせたりすることなく、共同注意が働かないわけです。特に、料理や飲み物に対する共同注意がなく、共感(認知的共感でなく情動的共感)しあう作業工程がなくなっているわけです。

もちろん、身体感覚(内受容感覚)は乏しいし、空間参照枠(パーソナルスペース、ペリパーソナルスペース)での情動惹起や、情動感染も少ないわけです。

そして、たぶん、懇親会場に(わざわざ)いく(準備をして行動を起こす)という意識(志向性)がかけてしまい、これは決定的に認知的な負荷は少ないかなと思ったりしています(だから楽なのですが、認知機能という面では・・)。

まあ、これがニュータイプ(古い?)な人間を生み出すのかもしれないし、このように時代は一気に変わっていくんだと思い、この飲み会も楽しんでやろうとは思っています。今を生き続けること、それが「社会脳」を守るわけなので。先日、盟友との3名でのミッドナイトに向けた飲み会は、まあまあ盛り上がり、時間を惜しんだりしたので、バーで気の知れた仲間と飲む感じでいけば、いいんじゃないかな、と思っています。ただ、まずもって「飯のうまさ(まずさ)」や「酒のうまさ(きつさ)」を共感できないのは、土佐人としては、ちょっと残念なところなわけです。

一方で、これまでの飲み会では、しゃべりをかぶせ、おおいに盛り上がっていたけど、それができなかった者たちにとっては、飲み会は、退屈だったんだろうな、と反省しております〜 軽い反省ですが。。

今の私は、(無茶苦茶な)飲み会がないので、めっきり体調がよくなっています。笑。毎日深夜に原稿が書けるので、執筆が進む、進む〜 そして、、本当の自分は引きこもりタイプなんで、素の自分でいられたり、しています。

 

森岡 周

 

 

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