りんごは果物であるが、赤くあるべきとは言えない

オンライン授業とはいっても、私はYouTubeに授業動画をあげて、学生はその動画を視聴し、課題に取り組むというスタイルで、この危機を乗り切っている。もう5週目になり、なんだか慣れてきて、動画をアップすることが習慣化しつつある。意外と楽しい。

本日の内容は、ピアジェの認知発達理論における「同化」「調節」「均衡化」を通じて、知能が発達していくというもの。そう、人間発達学の講義。

子供がりんごを見たとき、母親との共同注意(三項関係)を通じて、それがりんごであること、そして、りんごは果物であることを知識として得る。と同時に、子供は自分の五感を通じて、「赤い」ことや「甘い」ことなどの情報を取り込み、それらを統合していく。

こうした過程を通じて、「りんごは果物である」という知識と、りんごは赤かったり甘かったりと、視覚や味覚などの情報を統合し、概念化していく。知識と概念があわさってシェマが形成される。

その後、いちごが果物で、赤く甘いものと、同化していったり、みかんも果物であるが、黄色で甘酸っぱかったりと、既存のシェマにはない情報を処理するといった調節という過程も加わり、同化と調節がバランス良く繰り返されるといった均衡化が起こり、どんどんシェマが大きくなっていく。

このようにして、人間は知能を発達させるが、大人になるにつれて残念なことが二つある。

一つは、自分自身がもっている、これまで培ってきたシェマ(既存の)にあわないものが情報として提供された場合、それを大人は受け入れない場合がある。子供は調節という手続きを通じて修正することで、シェマを拡大していくが。。。

もう一つは、「りんごはこういうもの(赤いもの)」と自らの身体体験によって概念化されてきたものが、「こうあるべき」あるいは「こうでなければならない」と、もともとは抽象的な情報であったものが、いつしか原理主義的な考え方に変更されてしまう嫌いが大人にはある。自由度が限りなく少なくなる。

「りんごは果物である」と「りんごは赤い」は同じではない。それを混同してはならない。赤くないりんご、青いりんご、色落ちしたりんご、鮮やかな色でないりんご、いずれもりんごだし、新しい色のりんごが生み出されたとしても、それもりんご。

旧態系の教育システム、臨床システムにこだわること、と、りんごは赤くなければならないとこだわることは同義であり、そのようなことにこだわりすぎると、調節というプロセスが働かず、シェマの拡大は見込まれない。すなわち、知能の発達がストップしてしまうわけである。また、りんごは赤くなければならないといって、着色したりして見場をよくみせても、味がよくなければ意味がない。外観だけにこだわる中身のない、知性のない大人になってしまう。また、そういう志向性が出てしまうと、赤くないりんごを排除してしまうだろう。それは、違う意見を排除すると同義である。偏見、差別・・・最近はそういうの、SNSで賑わってしまっている。

「◯◯にこだわる」と豪語する方々がいるが、今一度、自分の知能の発達のために、その言葉を見直したいところである、と思う。「臨床にこだわる」「結果にこだわる」、そもそも、それが臨床なのですか?結果なのですか?

 

森岡 周

 

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