総力戦

内科学の背景には病理学があり、病理学の背景には生物学がある。私の同級生がこのような類のエッセイのようなものを昔書いていた記憶がある。

生物学の発見は病理学の進歩につながり、病理学の発見は内科学の進歩につながる。有能な存在たちであればあるほど、自分の限界を知り、無知の知のもと、他者、他分野に依存し、共存できるよう環境を整えていく。

内科の臨床医は病理学教室に属し、一時期基礎研究に没頭する時期もある。内科医は病理の研究者を尊敬し、病理の研究者は内科医を尊敬していることも多い。

人々を救うためには、そのような連携というか、奥行きが必要である。深さ・深みである。

ある年配の有名な理学療法士がエビデンスありきを否定し、感覚の重要性を説き、語り部では臨床はわからないと、トークをしていた。一方、ある若者理学療法士が、学歴は必要ない、大学院はいらないとつぶやいていた。そうした意見に同調するように、同じような立場の人の母集団が多いと、それへの共感の意見が巻き起こるが、もう一度、前述の深み(深さ)から、その言葉の浅さを読み解いてほしい。

進化をあらわす多様性が、私の属する仕事にも生まれはじめているのに、その多様性をうばう言葉は実にもったいない。

困難や課題に立ち向かうためには、あらゆる角度から、そのものを眺める個人とともに、個人の限界を補うための学際的な集団が必要である。

 

いつまでたっても、臨床だ〜 教育だ〜 研究だ〜、エビデンスだ〜 個別性だ〜、若者は〜 老害だ〜 などと、バリアを張る必要はない。心のバリアは不安・恐怖の象徴。

総力戦。集団の深さをつくること。でないと、「いつまでたっても」という「絶望」になってしまう。「絶望」は私の定年と共に、深海に葬りたい。深海のような壮大な深さをつくるためにも。

 

森岡  周

 

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