今回は、マルティン・ハイデガーの哲学に登場する「未来への投企(Entwurf)」と、ジョン・キーツに由来する「ネガティブ・ケイパビリティ(Negative Capability)」のあいだにあるとされる“矛盾”について考えてみます。
「投企」は、私たちが未来に対して積極的に可能性を切り開いていくようなイメージが強い。一方「ネガティブ・ケイパビリティ」は、不確実さや曖昧さにとどまり、安易な結論を求めない受容的な態度を指す。
この二つは、一見すると逆方向のベクトルを持つように感じられます。では、実際には本当に矛盾するのでしょうか? あるいは、両立する余地はあるのでしょうか?
1. ハイデガーの「未来への投企」とは
ハイデガーの『存在と時間』で語られる「投企(Entwurf)」とは、私たちの存在(Dasein)が本来的に「可能性として開かれている」ということを自覚・理解する営みです。
• 「自分が成し遂げたいことに突き進む」だけじゃない
投企と言うと、「未来に対してガンガン行動する!」というイメージを抱きがちですが、ハイデガーにとってはそれだけではありません。
むしろ「自分はこれにもなれるし、あれにもなれる」という、根本的な不確定性を引き受けることが重要です。
• 先駆的決意性(vorlaufende Entschlossenheit)
ハイデガーは、「死」によって自分の生が有限であることを先取りすることで、“今ここ”のあり方が変わると説きます。
これは、「どう生きても最後は死に向かう」という事実をはっきりと自覚するということ。そこから逆算して「では今この瞬間をどう生きるか?」が問い直されるのです。
言い換えれば、未来への投企は、「自分はいま、何をどのようにして生きようとしているのか」を常に更新しながら問い続ける態度とも言えます。
2. ネガティブ・ケイパビリティとは
一方、ネガティブ・ケイパビリティは、ジョン・キーツが詩の創作において重視した概念です。現代ではリーダーシップ論や組織論などでも広く取り上げられています。
• 曖昧さや不確実性に耐える力
人は何か問題が起きると、すぐにスパッと解決策を出そうとします。でも、不確実な状況では安易な結論がかえって可能性を狭めることもある。
ネガティブ・ケイパビリティとは、そのような状況で「まだはっきりとは分からない」「矛盾があるかもしれない」という状態をむやみに避けず、むしろそこに“とどまり続ける”力のことです。
• 受容と創造が同時に働く
漠然と「答えを出さない」わけではありません。「分からない」を引き受けることで、新しい視点や洞察が生まれやすくなる。
創造性や想像力を発揮するためには、単に行動あるのみ!と突き進むよりも、未知や曖昧さを抱え込める精神の余裕が大切だと考えるわけです。
3. なぜ矛盾しているように見えるのか?
• 「投企」は能動的、「ネガティブ・ケイパビリティ」は受動的?
投企は「積極的に先へ進む」イメージ。ネガティブ・ケイパビリティは「じっと曖昧さにとどまる」イメージ。
そのため、両者が両立するのは難しいと思われるかもしれません。
しかし実は、ハイデガーが言う投企は「特定の一つの未来像を必ず実現する」と固執することを推奨してはいません。むしろ「さまざまな可能性として自分が開かれている」ことを徹底的に引き受ける姿勢が大事なのです。
4. 矛盾解消:両者は補完し合う関係
・投企は「不確定な可能性を引き受ける」
投企は、「未来」に対して自分なりに向かっていこうとする態度である一方、そこには「自分は実は何者にもなり得る」という不確定性が伴います。
ここで大切なのは、「一つの答え」に飛びつかず、可能性を多面的に捉え続けること。
ネガティブ・ケイパビリティが強調する「曖昧さを抱える力」との共鳴を感じられる部分です。
・ネガティブ・ケイパビリティは「安易な結論を保留する積極性」• ネガティブ・ケイパビリティは「何もしない」のではなく、「結論を急がずに観察・洞察を続ける」積極性を含みます。
これはハイデガーの「死への先駆」のように、既存の枠組みを超え、自分の有限性や未知の部分に目を向ける態度ともリンクします。
・未来へ向かいつつも、曖昧さに耐える
実際の行動や意思決定の場面では、当然ながら何らかの形で“決断”は必要になります。
しかし、その決断を下すプロセスや後の振り返りの中で、「曖昧さや不確実さ」をあえて排除せずに抱えておく姿勢は、新たな発想や柔軟性を育む要因となるでしょう。
5. おわりに――「どこにも安住できない」ことの意義
ハイデガーの「未来への投企」と、ネガティブ・ケイパビリティが説く「曖昧さへの耐性」
一見すると正反対に思えるこの二つですが、実は「人間が本来的に持つ不確定性」をどのように扱うかという点で相補的です。未来に向かって開かれつつ、簡単に断定はしない。前へ進みながらも、未知や曖昧さを排除しない。
そこには、
「答えが出ないから動けない」わけでも、
「動くために答えを強引に作ってしまう」わけでもない。
“答えが見えないからこそ動いてみるし、
でも、いつも答えは揺らぎ得るものとして受け止める”。
という、生き方のバランスがあります。
私たちの日常生活や仕事でも、「決断しなきゃ!」という圧と「いや、まだよく分からない」という迷いはしばしば同時に訪れるもの。そんなときこそ、「どちらかを否定する」のではなく、両方を引き受けることで新しい視点が開けるかもしれません。
もし、「未来に対して前向きでありたいけど、不安や曖昧さを感じる…」と悩む方がいれば、ハイデガーとキーツが示唆するこの二つの姿勢を思い出してみてはいかがでしょうか。
可能性を開きながら、不確実性を抱え続ける力。 それはきっと、より豊かな未来を紡ぐためのヒントになってくれるはずです。
参考にしたいキーワード
• マルティン・ハイデガー『存在と時間』
• ジョン・キーツ「ネガティブ・ケイパビリティ」
• 先駆的決意性(vorlaufende Entschlossenheit)
• ガラッセーンハイト(Gelassenheit)(ハイデガー後期思想:あるがままに委ねる態度)
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