怠惰という選択がもたらす自由

現代社会では、生産性や効率が美徳とされ、常に「何を達成したか」「どんな成果を出したか」が問われがちです。そんな風潮の中で私たちは、「やる自由」を享受する一方で、しばしば「やらない自由」を疎かにしてしまうことがあります。ところが実は、この「やらない自由」を意識的に手に入れることこそ、私たちが人間としての不完全さを受け入れ、自分らしさを確立していくうえで重要なのではないでしょうか。

 

 

やる自由とやらない自由

自由とは、「何かをする」だけを指すものではありません。「やらない」という選択肢を持つこともまた、私たちの自由意志の一側面です。もし「やることしか許されない」世界が存在するとしたら、それは極めて画一的で、個性や創造性が失われた社会になるでしょう。逆に「やらないことしか許されない」世界も、同様に窮屈で新たな可能性を失うことになります。結局、人間はいつでも「やる」「やらない」という両極の間で揺れ動き、自己の意思を確かめながら生きる存在なのです。

 

不完全さこそ人間らしさ

この「やるか」「やらないか」という振れ幅の中に、私たち人間の不完全さが宿っています。多くの人は義務や責任に追われ、それらをこなそうと奮闘する一方で、心のどこかに「何もしない時間を持ちたい」という渇望や、一種の「怠惰」を求める感情を抱えているのではないでしょうか。

 

しかし、「怠惰」にはどこかネガティブなイメージがつきまといます。「サボる」「怠ける」といった言葉は否定的に捉えられがちです。けれども、もし私たちが常に何かを成し遂げていないと存在価値を認められない、そんな社会であれば――果たしてそれは本当に豊かな社会なのでしょうか。不完全であるがゆえに悩み、選択し、ときに立ち止まる自由も手にしていることこそが、人間らしい営みだといえます。

 

怠惰を「あえて」選ぶということ

「あえてやらない」「あえて何もしない」という行為は、一見するとただのサボタージュのように感じられるかもしれません。しかし、意識的に「しない」時間をつくることは、自分を見つめ直すチャンスにもなり得ます。たとえば、心身を休ませるだけではなく、“空っぽ”の時間を過ごすことで、新しいアイデアが生まれたり、今まで気づかなかった感情と向き合えたりすることもあるでしょう。いわゆるこれをデフォルトモードネットワークの活性化と呼ぶことができるでしょう。

 

この「怠惰を楽しむ」という発想は、現代の過剰な効率主義に対するカウンターとも言えます。ずっと走り続けるだけでは見えない風景があるように、何もしないからこそ見えてくる風景があるのです。いわば、怠惰に生きるというのは「今ここにいる自分を味わう」ための贅沢な時間を持つことでもあります。

 

自分らしさを取り戻すために

たとえ怠惰に生きたいという願望を抱いても、社会においては一定のルールや責任が存在します。完全に何もせずに生きることが難しい状況は多いでしょう。しかし、「日々の中に少しだけ怠惰を挟む」あるいは「やるべきことを最低限に絞る」など、自分に合ったやり方で「やらない時間」を確保することは可能です。

 

重要なのは、自分が「やる」べきことの質や優先度を見極めつつ、同時に「やらない」という選択にも価値があるという視点を持つことです。やりたいことを積極的に追求する力が私たちを前に進める一方で、やらない選択が自分を立ち止まらせ、内面を深める機会を与えてくれるのです。

 

「やらない自由」を受け入れ、「怠惰に生きる」というスタンスを自分の中で確立することは、決して社会的不真面目や無責任を推奨するものではありません。むしろ、常に全力疾走しなければならないという脅迫観念から解放されることで、私たちの心はより柔軟になり、結果的に本来の自分らしさが芽吹くきっかけになるかもしれません。

 

怠惰を「意図的に選ぶ」ことは、自分を消耗させるレースを抜け出す小さな勇気でもあります。やる自由とやらない自由、その両極を行き来できる余白の中に、人間の不完全でありながらも尊い姿があるのではないでしょうか。

 

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