記憶というもの
最近、(もちろん年齢のせいが大きいが)記憶力の低下が著しい(特に“近い”過去のありふれたエピソード記憶で)。
大学に着任して20年以上が経過。人によっては異なるものの、大学の教育研究者としての生活は、「予定記憶の連鎖」によって駆動されることが多い。
タスクの多様性、流動性、そしてそれらを自己管理しなければならない状況が、時間感覚を曖昧にさせている。
教育、研究、事務(通常なものから役職としてのものまで)、学生対応、院生指導、学会発表、論文執筆(自他含めて)、講演準備、社会貢献、場合によっては臨床業務――これらが同時進行し、未来の締め切りやタスクが次々と現れる。
時間は確実に流れているのに、実感としては「静止しているようで動いている」という独特の感覚に陥る。
過去の出来事が「振り返る時間の不足」によって埋もれていき、記憶に定着しない感覚は、心理学的には、以下の「時間的オーバーロード」と呼ばれる状態に近い(20~30代の時は自分なりに記銘し順序をつけていたが・・今はそれすらできない)。
つまり、予定やタスクが未来に偏重するほど、現在や過去が希薄化する。
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未来への意識が強調され、常に「次に何をするか」「締め切りまでに終わらせなければ」という感覚に追われる。
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現在の出来事や作業に集中しにくくなる。過去の出来事も振り返る余裕がなく、記憶に残りにくい。
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スケジュールが詰まっているため、一つのタスクを終えてもすぐに次のタスクに移らなければならない。
ただ、この「未来に追われる感覚」が、逆説的に新たな発想を生むこともあるのが興味深い。
そして、スケジュールに縛られながらも、その合間にマルチタスクが故に、偶発的に生まれる着想が、新たな研究の萌芽となることもあり、それゆえに面白く、だから続けているのかもしれない。
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メルロ=ポンティは「身体的に感じる時間の流れ」に焦点を当て、
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ハイデガーは「未来志向の存在(先駆的存在)」として、人間が未来を意識しながら現在を生きるという視点を提示した。
「未来に向かう中で現在が形作られる」――この過程で、自らの身体と意識がどのように反応しているのかを観察することも、自己の再発見につながることがある。
とはいえ、時には「意識的に過去を振り返る時間」を確保することも重要であることは間違いない。
自己を語ることに重要性を最近説くようになった自分自身がそれを実践しないと、と思っている。
忙しい日々の中で、過去の自分と対話する瞬間を少しずつ持てれば、時間の輪郭が幾分か鮮明になるかもしれない。
どこでどうリセットするか――これが私にとっての今後の課題であると思う。
すなわち「いま・ここ」に集中すると時間を取り戻したい。